中国同盟会

上海をめぐる日英関係1925‐1932年―日英同盟後の協調と対抗
中国同盟会(ちゅうごくどうめいかい)は孫文らによって1905年8月20日東京で結成された政治結社。

興中会(文・胡漢民汪兆銘など)、光復会(陶成章章炳麟蔡元培秋瑾など)、華興会(黄興宋教仁陳天華)などが合併して成立した。孫文が総理、黄興が庶務となった。

同盟会の綱領は「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」であった。機関誌は『民報』。『民報』は編集長の陶成章と章炳麟のもと、胡漢民と汪兆銘が執筆にあたり、帝政維持を主張する康有為梁啓超の『新民叢報』と激しい論戦を繰り広げた。

1906年にはシンガポールに南洋支部設立し、東南アジアでも活動を行った。

1907年、孫文が会員の同意を得ないで、日本政府から資金を受けて日本を離れたことに反発して光復会が離脱した。しかし黄興は孫文の支持を継続した。

同盟会は朝を打倒しようと何度も各地で蜂起を行ったがことごとく失敗に終わった。特に1911年黄花崗蜂起は惨烈を極め、多くの犠牲者を出した。

武昌蜂起では多くの同盟会のメンバーが参加していたが、指導的な役割を果たすことはなかった。1912年辛亥革命後に南京に臨時政府が成立すると9人の閣僚のうち3人が同盟会のメンバーだった。しかしこの頃すでに同盟会は四分五裂状態に陥っていた。

  1. 辛亥革命後
  2. 関連項目

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